鹿児島が恋しいとは思いませんか。

霧島山が、桜島が、城山が、熱いお茶にかるかんがおいしい頃ですね。

こちらは林芙美子の代表作「放浪記」の一節です。鹿児島に本籍をもつ林芙美子自身が、上野の西郷さんに語りかけるくだりです。

鹿児島と言えば、桜島。鹿児島県を代表する観光地ですね。食べ物は、かるかん、薩摩揚げ、桜島大根、黒豚、さつまいも、芋焼酎、かき氷の白熊、さつまいもベースのスィーツなどなど、いろいろありますね。以前は鹿児島県の甘い系お土産は「かるかん」が定番中の定番(林芙美子が文中に書くほど)でしたが、「かるかん」の進化系とでもいいましょうか?!「かるかん」もいろいろあるようなので、胃袋の許す限りいろいろ味わってみたいものです。そして、薩摩焼酎を片手に、さつま揚げを食べながら二日酔いになるのを恐れずに飲みたいものです。(鹿児島県人は、女性もかなりお酒が強そう~!)

鹿児島にはたくさんの観光地がありますが、まず頭に思い浮かぶのは桜島ではないでしょうか?!

その桜島ですが、どうして桜島なんでしょう。。昔からそうだった。と言われてしまえば、それまでですが・・記録を辿ってみると、1934年建武元年)頃の記録では「向嶋」と呼ばれていて、「桜島」ではなかったんです。1476年(文明8年)以降から「桜島」の名称が記録に現れるんです。その後しばらくの間は、「向嶋」と「桜島」の名称と両方出ていたのですが、1698年(元禄11年)薩摩藩の通達によって桜島の名称に統一されたそうです。。「向嶋」の名称の由来は、東西南北どの方向から眺めてもこちらを向いているように見えるから「向嶋」と呼ばれていたそうです。「桜島」の名前の由来ですが、これだ!といえるものはなく、3説あります。

1.海面に一葉の桜の花が浮かんで桜島ができたという伝説に由来する。

2.10世紀中頃に大隅守を勤めた桜島忠信の名に由来する。

3.島内に木花咲耶姫命(コノハナノサクヤビメ)(姫)という、日本神話に登場する女神を祭る神社が在ったので、島を咲耶島(サクヤジマ)と呼んでいましたが、いつしか言葉が訛って桜島となる。

いったいどれなんでしょう。訛りから物の名前が定着するのもありますし、海面に桜の花が浮かんだ伝説から日本神話に登場する神社を結び付けたのかも?!と考えても面白いですね。

桜島(さくらじま)は、ご存じの通り鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)にあります。そして、桜島は火山島でもあります。活火山レベルA(*1)の成層火山です。鹿児島湾より東西約12km、南北約10km、周囲約55km、面積約77km²で、噴火前(1914年・大正3年)は『島』でしたが、この噴火によって大隅半島(日本列島を構成する島、九州の半島のひとつ)と陸続きになりました。

1934年(昭和9年)11月19日より運航を開始していますが、開通時の運賃は片道10銭-15銭でした。現在の運賃は150円 小児(1歳~小学生まで) 80円 。もちろん車両も運べます。車両(3~4m未満) 1,070円 車両(4~5m未満) 1,480円。

市民の足として利用されている桜島フェリーですが、どのようにして桜島フェリーが始まったのでしょうか?!それは1914年の噴火がきっかけでした。

1914年(大正3年)1月12日に噴火が始まり、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出しました。流失した溶岩の体積は約1.5km3、溶岩に覆われた面積は約9.2km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになりました。火山灰は九州から北の東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)にも達しました。噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認されています。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっているため、この中心部の直下、深さ約10kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示しています。桜島には埋没してある鳥居があります。この鳥居は黒神集落にありますが、噴火のため鳥居の上部をわずかに残しただけで、噴石や火山灰に埋もれてしまっています。

この一連の噴火によって死者58名、傷者112、焼失家2268という惨事でした。この桜島の大噴火によって桜島住民は大きな被害を受けてしまいました。やがて、災害復興や通学のためにに鹿児島市街地と桜島とを結ぶ定期航路を望む声が大きくなっていきました。この市民の声を受けて、当時の西桜島村(のちの桜島町、現・鹿児島市)が1930年(昭和5年)頃より準備を始め、1934年(昭和9年)11月19日に運航を開始する運びとなりました。その後、次第に便数を増やし、現在では驚くことに24時間運航を行っており、昼間最短10分間隔、深夜60分間隔での運航になっています。約3.5kmの距離を約15分で結んでいます。桜島フェリーでは、車両の利用も多い点があげられるでしょう。2004年を例にみますと年間延べ550万人の乗客と164万台の車両を航送しています。桜島の人口規模の割にこれだけの利用があるのは、桜島だけではなく、鹿児島市中心部と大隅半島中央部・南部と鹿児島市中心部の間を行き来する際に陸路に比べ大幅に移動距離が短く、時間を節約できるためと考えられています。

そして桜島の噴火災害に備えて、桜島の各所にはフェリーが着岸できる場所が設けられているので、災害発生時に住民の避難に利用できるよう準備が整えられている。噴火の時だけではなく、平成5年8月豪雨の際には、竜ヶ水地区に孤立した住民などを海からの救助に参加しました。その当時、竜ヶ水地区にはフェリーが着岸できる場所がなかったため、地元の小型漁船の協力によって救助が出来ました。

桜島の人口ですが、明治以前は2万以上でしたが、1914年の大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人と減少が続いています。

1活火山レベルとは?!

平成15年1月21日に火山噴火予知連絡会によって,108の活火山が選定されました。それは、これまでの「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」としてきた活火山の定義を,国際的な標準に合わせ,「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動がある火山」に見直しをしたものです。

ランクA(13火山) 十勝岳,樽前山,有珠山,北海道駒ケ岳,浅間山,伊豆大島,三宅島,伊豆鳥島,阿蘇山,雲仙岳,桜島,薩摩硫黄島,諏訪之瀬島

ちなみに富士山はランクBです。

1913年 大正2年から始まった噴火の前兆

1913年6月29日から30日にかけて中伊集院村(現日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象でした。最初の弱い地震から半年後の12月下旬には、井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因と考えられる死者が出るなどの異変が発生しました。そして、12月24日には桜島東側海域の生け簀で魚やエビの大量死があったことから、海水温が上昇しているのでは?!という指摘もありました。

年が明けた翌年の1月に入ると、桜島東北部で地面の温度も上昇していきました。本来冬場では見ることのないヘビ、カエル、トカゲなどが活動している様子が目撃されています。1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌11日にかけて弱い地震が頻発に感じられるようになりました。噴火開始まで微小地震が400回以上、弱震が33回観測されています。

避難の状況はどうだったのでしょう。

噴火の前兆となる弱い地震が頻発し始めた1月10日夜から住民の間で不安が広がっていきました。地元の行政関係者が鹿児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせたところ、地震については震源が吉野付近(鹿児島市北部)のため、白煙については単なる雲であるから、桜島には異変がなく避難の必要はないとの回答でした。しかし、翌日の11日になると住民の中に避難を始める住民が出始めました。桜島東部の黒神、瀬戸、脇では地域の青年会が中心となって女性、子供、老人を優先に牛根村、垂水村(現垂水市)方面への避難が進められました。また、桜島北部の西道、松浦においても青年会が中心となり鹿児島湾北部の重富村(現姶良町)、加治木町、福山村(現霧島市)方面への避難が進められました。その一方で、鹿児島市街地に近い桜島西部の横山周辺は測候所の見解を信頼する者が多く、そのため避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から海岸部各所に避難しようとする住民が殺到し大混乱となりました。しかし、西桜島村の死者は3名のみでした。

桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難は困難を極めました。対岸の鹿児島市は鹿児島湾内に停泊していた船舶を緊急に徴用して救護船としましたが間に合わず、東桜島村では混乱によって海岸から転落する人や泳いで対岸に渡ろうとして凍死したり溺死したりする人たちが相次ぎました。この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には「住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である」との記述が残されています。これは、「科学不信の碑」とも呼ばれています。

桜島対岸の鹿児島市内では、1月12日夕刻の地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生のうわさが瞬く間に広がり、市外へ避難しようとする人々が続出しました。鹿児島駅や武駅(現鹿児島中央駅)には避難を急ぐ人々が集まり騒然となったそうです。鹿児島市内の混乱は1月17日頃まで続きました。

1月11日には山頂付近では地鳴りが多発します。これは岩石の崩落に伴うものでした。また、山の中腹では薄い白煙が立ちのぼる様子も観察されました。そして、海岸のいたるところで温水や冷水が湧き出たり、海岸近くの温泉で臭気を発する泥水が湧いたりする現象も報告されています。噴火開始当日の1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が沸き出す様子も目撃されています。

噴火の経過

1914年1月12日午前10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がりました。そしてそれから約5分後、大音響と共に大噴火が始まりました。その約10分後には桜島南東側中腹からも噴火が始まりました。間もなく噴煙は上空3,000m以上に達し、岩石が高さ約1,000mまで吹き上げられました。午後になると噴煙は上空10,000m以上に達したため、桜島全体が黒雲に覆われてしまいました。その噴火は、大音響と空振を伴い断続的に爆発が繰り返されていきました。午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)が発生、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害がありました。

日付が替わった13日午前1時頃、爆発はピークに達しました。噴出した高温の火山弾によって島内各所で火災が発生。そして大量の軽石が島内及び海上に降下しました。また大量の火山灰が風下の大隅半島などに降り積もりました。午後5時40分には噴火口から火焔(炎)が上っている様子が観察され、午後8時14分には火口から火柱が立ち、火砕流が発生しました。この火砕流によって、桜島西北部にあった小池、赤生原、武の各集落が全焼となりました。午後8時30分に火口から溶岩が流出していることが確認され、桜島南東側の火口からも溶岩が流出しました。

1月15日、赤水と横山の集落が桜島西側を流れ落ちてきた溶岩に覆われました。この溶岩流は1月16日には海岸にまで達し、1月18日には当時海上にあった烏島が溶岩に包囲されました。一方、桜島南東側の火口からも流れ落ちてきた溶岩も海岸にまで達し、噴火前には72mもの深さがあった瀬戸海峡までもが埋め立てられていきました。こうして1月29日、桜島が大隅半島と陸続きになったのです。このとき瀬戸海峡付近の海水温は1月の海とは思えない49℃にまで達しました。溶岩の進行は2月上旬に停止しましたが、2月中旬には桜島東側の鍋山付近に新たな火口が形成され溶岩が流出しました。1915年(大正4年)3月、有村付近に達した溶岩の末端部において二次溶岩の流出もありました。

一連の噴火活動は1916年(大正5年)にほぼ終息しました。

噴火によって降り積もった火山灰は火砕流に襲われた赤生原付近や風下にあたった黒神と大隅半島の一部で最大1.5m以上、桜島の他の地域でも30cm以上の深さにまで達しました。桜島島内の多くの農地が被害を受け、ミカン、ビワ、モモ、麦、大根などの農作物は、ほぼ全滅してしまいました。そして、耕作が困難となってしまった農地も多くあり、噴火以前は2万人以上であった島民の約3分の2が島外へ移住していきました。移住先は種子島、大隅半島、宮崎県を中心とした日本各地のほか、朝鮮半島に移住する住民もいたと伝えられています。

噴火したこともありますので火山噴出物で構成されているため生育に適する農作物は限られています。桜島の特産品として、世界一大きい大根「桜島大根」と、世界一小さなみかん「桜島小みかん」が有名なんです。世界一大きい野菜と世界一小さな果物があるというのが、とてもユニークですね。世界一大きい大根を育てるには、火山灰(主にマグマが発泡してできる細かい破片)の土壌を利用して、かなり手間をかけて大きく育てなくてはいけないのです。「桜島大根」の普通サイズで約6kg前後もあります。大きな物になると約30kg,直径にして約40-50cmほどなので、ギネスブックに登録されたのも納得ですね。そして「桜島小みかん」ですがこちらもギネスブックに登録されていますが、重さ20 - 50グラムです。強い甘味が特徴なので、ギュッと甘味が濃縮されているんですね。どちらも稲作に適さない土壌の桜島では、とても重要な農作物です。

そして、桜島には天然の軽石から作られる「桜島きんこう鉢」や溶岩を利用した「溶岩プレート(焼肉など)」が販売されています。「桜島きんこう鉢」は、あらゆる植物に適した天然の鉢で、ほどよい水分を補給して、保水性・通気性・排水性に優れて十分な水と酸素を与えてくれて、なおかつ根付きも良いと言われる天然の鉢です。「溶岩プレート」ですが、名前の通り桜島溶岩を加工して作られています。溶岩プレートは遠赤外線効果があるため、同じお肉を焼いても美味しさがアップします。嬉しいことに焦げ付かない・煙も少ないということもあり、室内での利用にも適しています。

活火山の桜島と鹿児島市内ではどのように生活がなりたっているのでしょうか。

鹿児島県内ではテレビ・ラジオ放送の天気予報で桜島上空の風向き情報が流されています。風によって火山灰が運ばれるので、洗濯物を干したりといった日常生活を送るうえで、近隣住民にとって風向きの情報は重要です。この情報提供は最初1983年(昭和58年)9月1日から177の電話による天気予報から始まりました。そして、換気にも配慮がされているんです。市街地を中心に、多くの学校のプールには降灰時にも使用できるようにと、カーテン状の可動式の屋根が設置されています。もちろん天気の良い時は屋根を開けて使用します。また、学校校舎には降灰時でも校内の換気ができるように、廊下側の窓にフィルターが設置されていて、教室内の換気扇には、降灰の逆流を防止するカバーが、換気扇の室外側についています。加えて、大隅半島など降灰量の多い地域には、雨どいが無い家屋がたくさん見られます。なぜ雨どいをあえて付けないのでしょう。それは、灰が雨どいに詰まり雨水を吸収して固まると雨どいとして雨水を通さなくなるので、最初から設置しないそうです。降灰時は霧の中のようになり、視界が数十mになる場合もあるので、当然ながら自動車の場合ライトが必須になります。また、火山灰がフロントガラスに付着するので、ワイパーを動かすときにはワイパーの速度を考えて動かさないと、ガラスに傷がつくこともあるそうです。火山灰を常に考慮して、生活を送っているんですね。